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2020・5

更新日:2020年8月22日

【日本語論文】

我が国のインバウンド・ツーリズムと地方の課題 「長崎国際大学論業」第3巻 2003年 11頁-21頁

Inbound Tourism in Japan and Tasks Its Regional Tourism Faces (2003)


本稿では、国際客の呼び込みであるインバウンド:・ツーリズムが理論的に考察するとともに、訪日観光とウェルカムプラン21の現状を知ることで、我が国地方のインバウンド・ツーリズムを復興する上での真の課題が何であるか示している。結論として、インバウンド・ツーリズム復興には、不特定の国や地域から国際客を呼び込むことが大切であり、そのための不特定多数に対するプロモーションが大切である。しかし、それよりも、観光客の送出し国の旅行業者や政府当局へのプロモーション、法律や制度、文化の理解が上位にくる課題であることを本稿では述べている。



【英語論文】

Pambudi, Djauhari, Nathalie McCaughey, and Russell Smyth. "Computable general equilibrium estimates of the impact of the Bali bombing on the Indonesian economy." Tourism Management 30.2 (2009): 232-239.

2002年10月に発生したバリ島クタでの爆破テロ事件によって減少した観光客数が、バリ島並びにインドネシアにどのような影響を与えているかを検証した論文。実際に翌月の観光客数は80%も減少した。

2004年までにはインドネシア政府によるバリ島への旅行促進PRに2億ドルを投入した甲斐もあってか、全盛期のころの観光者数に戻りつつあった。しかし、2005年にもクタとジンバランにおける爆破テロ事件が発生し、来訪者数が50%減ったといわれている。

爆破事件後の雇用について、爆撃事件はまた、人員削減や労働時間の短縮によって雇用レベルを低下させた。世界銀行/UNDP(2006年)は、ホテル部門で雇用されている人の4分の3もの人が、シフトを減らして働いているか、一時的に余剰人員になっていると推定している。また、交通やサービスなど他の観光関連産業へのフローオン効果もあった。

小売業など観光客に依存しているサービス業の中小企業は、2002 年 10 月から 2003 年 5 月までの間に 50~60%もの雇用が減少したとされている。

 観光と最も密接に結びついているセクターは爆撃の影響を最も受けているが、一部のセクターは全体的に損失を被っている地域であっても成長する可能性があることを示している。例えば、バリのホテル・レストラン部門が7.7%縮小しているのに対し、機械・エレクトロニクス部門は2.13%の成長となっている。したがって、最も効果を発揮するためには、援助は単に地域ベースで配分されるのではなく、セクター別に配分されるべきである。



【書籍】

吉田竹也(2005)『バリ宗教と人類学ー解釈学的認識の冒険ー』風媒社

~バリ宗教のうまれ~


バリが世界に認知され始めたのは16世紀末である。1597年にオランダ船団が当時の統一王朝であるゲルゲル朝に会見を行った。優れた特産品等もなかったことから主要な交易ルートを外れ、本格的な介入は後回しにされた。当初バリに対するイメージはヒンドゥーの絶対君主が粗野で好戦的な民衆を支配する封建的な社会だというイメージ。その背景にはバリの王様たちが奴隷の提供を行っていたことからそうだと考えられていた。19世紀になるとバリに対するイメージが変わる転機が訪れる。1811年から5年間のイギリス統治期に植民地政府の副総督をつとめたラッフルズはバリの王や貴族が持つヒンドゥー文化・文明は社会の根幹であり、そこにバリの豊かさがあると考えた。しかし、そのイメージは再び東インドを支配するようになったオランダ政府には受け継がれることはなく、ヨーロッパ人に対して敵対的で周辺海域で略奪行為を行なう野蛮な民族という認識であった。

そして、19世紀末から20世紀初頭にかけてバリは地震やスペイン風邪といった様々な災難に襲われることになる。こういった背景の中、バリの人々は自分たちが神に見捨てられたのではと感じるようになり再度、儀礼活動などを活性化する事を行なったのである。つまりこの災難をきっかけとしてバリ宗教はバリ人によって再興されたような一面がある事がうかがえる。しかし、1920年代以降にやってくる観光客や研究者はバリ宗教というものは伝統文化としてずっと前からあったものとして間違った理解をすることとなった。そして、こういった災害の被害をバリ人だけで復興する事は難しく植民地政府に対しても援助を申し出る必要があった。しかし、この政府による伝統的な文化を保存しようとする運動はそもそもの伝統文化を保存しようとするのではなく、オランダ側が伝統文化としてみなしたものを初等教育などによって一方的に押し付けたりするという倒錯的な行為であった。



~バリの観光地化~


そしてバリの観光地化は第一次世界大戦後に始まっていく。第一次世界大戦後、ヨーロッパの上流階級に自分たちの土地の外にいやしを見出そうとする流れが生まれる。当初オランド植民地政府はバリを観光地化させようという動きはなかったが、自分たちの支配によってバリに文化保護と社会体制の回復を内外にアピールしようという動きが強まり、バリを観光地として売り出していこうとすることが決まった。そんなバリが欧米において注目されるきっかけになったのはドイツ人のクラウゼがドイツにて行った写真集の出版やアメリカ人のアンドレ・ルーズベルトがバリで撮影した映画「グナ・グナ」がヒットしたことである。そして結果的にパリ植民地博覧会においてオランダ館の展示がバリ文化を中心としたものになったことも挙げられるだろう。そして1924年には観光目的の定期船が就航し、1930年代には大手旅行会社がそれぞれバリ観光ツアーを企画するようになり、ますます楽園バリというイメージは形作られていくこととなった。そしてバリ文化を研究しようとする研究者の流入も多くなった。彼らはバリ人に西洋絵画の技法を教えたり、バリ人の書く絵画の品評会なども行なっていた。そこに参加していたバリ人はどのようなバリ絵画であれば欧米人に好まれ、売れるのかという事を学んでいたそうだ。つまり、非常に興味深い点はバリの芸術というのは西洋人が入ってくる前から形作られていたわけではなく、西洋人によってその価値を見出されたものがバリ人によって具体化されていったものなのである。

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